2014年4月18日金曜日

石川 金沢市(金沢城 兼六園 ひがし茶屋町)など

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➛江戸幕府を除いて最大の石高を誇る加賀藩の城下町、金沢市に行ってきました。第二次世界大戦で空襲を受けなかった事から市街地に歴史的風情が今なお残る金沢は、緑あふれる素敵な街です。
➛2002/05/16 撮影
新緑の金沢市
➛オススメ動画 石川 加賀百万石 金沢を訪ねて

石川 金沢市(金沢城 兼六園 ひがし茶屋町など)を訪ねて
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空から街並み拝見(Google Earth)

新 Google Map 石川 金沢市 兼六園

➛金沢市は「加賀百万石」と称された加賀藩の城下町として盛え、現在でも北陸地方では最大の都市で、長年の都市文化に裏打ちされた数々の伝統工芸、日本三名園の一つとして知られる兼六園、加賀藩の藩祖・前田利家の金沢入城に因んだ金沢百万石まつり、さらに庶民文化(郷土料理の治部煮等)など、観光都市として全国に知られています。
金沢城の石川門


金沢城鶴丸倉庫(旧陸軍被服庫、藩政末期の建築物)

➛金沢城は、典型的な平山城で、櫓を多用した構造になっており、瓦には冬の積雪に耐えられるように、軽量で、また、有事には鉄砲弾にもなる鉛瓦が用いられました。
金沢城 三十間長屋(重文)(Wikipediaより)


➛旧第六旅団司令部

➛江戸時代に金沢城の庭園として作られた兼六園は、水戸の偕楽園、岡山の後楽園とともに日本三名園とされています。名称「兼六」の由来は、宋代の洛陽名園記が指摘する、庭園にとって両立しがたい六つの特性、宏大と幽邃、人力と蒼古、水泉と眺望を兼ね備えていることによります。
兼六園 徽軫灯籠と霞ヶ池

兼六園にて

➛兼六園は、広さ約3万坪、江戸時代を代表する池泉回遊式庭園としてその特徴をよく残しております。
兼六園の冬、徽軫灯籠と霞ヶ池(Wikipediaより)

➛兼六園は、春夏秋冬それぞれに趣が深く、季節ごとに様々な表情を見せますが、霞ヶ池を渡る石橋を琴に見立てて徽軫(ことじ)をなぞらえた徽軫灯籠(ことじとうろう)は、兼六園を代表する景観となっています。
兼六園 雁行橋(Wikipediaより)

➛兼六園 雁行橋

➛兼六園

➛兼六園にて

➛兼六園 曲水のカキツバタ


成巽閣

県立歴史博物館


➛県立美術館

➛兼六園広坂休憩所は、資料展示室、談話室等からなり、兼六園や金沢城に関する史料が展示されていますが、もともとは、大正11年(1922年)に陸軍第9師団長の官舎として建てられた木造2階建の洋館です。
兼六園 広坂休憩所(Wikipediaより)


➛中村記念美術館


金沢歌劇座


金沢21世紀美術館


金沢能楽美術館


県政記念しいのき迎賓館

四高記念文化交流館


➛尾山神社


前田土佐守家資料館

➛長町界隈は、かつての藩士が住んでいた屋敷跡であり、土塀の続く町並みの中では今も市民生活が営まれています。
石畳の小路を散策すれば、当時の雰囲気がしのばれます。
➛長町界隈

➛長町の武家屋敷

➛長町の武家屋敷


➛尾崎神社

泉鏡花記念館

➛金沢の庶民が通った花街が浅野川沿いにある主計(かずえ)町茶屋街です。戦前まで鼻の下を伸ばした男たちは、中の橋をいそいそと渡り、人目に付かないように「暗がり坂」の石段を歩いて主計町に通ったのだとか。木造の中の橋、暗がり坂の石段など、茶屋街の風情は昔のままに残されています。
➛主計町茶屋街(冬)

➛京都の祇園と並ぶ格式の高さを誇るひがし茶屋町、夕暮れどきに散策すると三味線や太鼓の音色が聴こえてきます。
➛ひがし茶屋町

➛ひがし茶屋町

➛ひがし茶屋町

➛ひがし茶屋町

➛ひがし茶屋町は、1820年に屑川西側の「にし」とともに、「ひがし」の茶屋町として浅野川の東に作られたそうです。
➛ひがし茶屋町

➛ひがし茶屋町

➛ひがし茶屋町

徳田秋声記念館


➛W坂


➛W坂

➛能『安宅』、歌舞伎『勧進帳』で全国に知られる安宅の関。1187(文治3)年3月、源義経一行が、兄・頼朝に追われ、奥州・平泉の藤原氏を頼って北陸道を落ち延びる途中、安宅の関にさしかかった時、関守・冨樫左右衛門泰家に見咎められましたが、弁慶の機智と勇気により危うく難を免れたという有名な逸話が残された地です。
安宅の関跡

➛江戸時代から明治にかけて、蝦夷地と大坂を結んだ西廻り航路に就航した北前船。大量の物資を運ぶ手段として舟運は欠かせないもので、日本海を走る北前船は日本経済にとっては大切な大動脈でした。その船主や船頭たちが集中して住んだ船主集落が加賀市の橋立地区です。
北前船の里資料館

➛総持寺は、886(仁和2)年、中納言藤原山蔭によって創建されたと伝えられる古刹で西国三十三ヶ所22番札所です。一条、後一条、白河、鳥羽天皇の勅願寺として栄えましたが1571(元亀2)年、織田信長の焼き討ちにより焼失。現存する本堂は、1603(慶長8)年、豊臣秀頼の命で片桐且元が再建したものです。
総持寺祖院

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