2013年2月27日水曜日

東海道五十三次 「神奈川宿 歴史の道」空撮ツアー


➛横浜市神奈川区が発行する「神奈川宿 歴史の道」を、空撮で展開すべく、詳細を記述しました。神奈川宿の歴史や伝説を知ることで、益々、興味が湧いてきます。丁度、日本の街道を辿ってみようとしていた最中でしたので参考になります。

➛詳細ルート
②東海道五十三次(品川宿~川崎宿~神奈川宿)
神奈川宿 歴史の道
➛神奈川宿は日本橋を出て三番目の宿場町です。この神奈川が一躍有名になったのは、安政元年(一八五四)の日米和親(神奈川)条約締結の舞台となってからです。その四年後に結ばれた日米修好通商条約では神奈川が開港場に決められましたが、後に横浜に変更されました。開港当時、この図に見られる多くの寺が、諸外国の領事館などにあてられました。「神奈川宿歴史の道」のルートはほぼこの範囲を対象としています。
神奈川宿歴史の道


東海道五十三次 「神奈川宿歴史の道」空撮ツアー
joy555 trails
Wikiloc ツアー一覧(後順)
空から街並み拝見(Google Earth)


➛「神奈川宿歴史の道」は、この上台橋より始まり(上り)ます。かつてこのあたりは、潮騒の聞こえる海辺の道でした。この場所から見えた朝日は、ひときわ美しかったのでしょうか。『神奈川駅中図会』にも、その姿が描かれています。この橋を渡り東へ坂道を上りきると、そこに関門跡の石碑が立っています。
➛上台橋(東へ坂道)


➛台町のこの周辺に、 神奈川台の関門がありました。開港後、外国人があいついで殺傷されましたが、 その犯人はなかなか捕えられませんでした。イギリス総領事オールコ ックを初めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難しました。そこで幕府は、横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け警備体制を強化しました。この時、 神奈川宿の東西にも関門がつくられ、そのひとつが西側・神奈川台の関門です。
➛神奈川台の関門跡


➛現在の台町、料亭田中家です。台町はかつて、神奈川湊を見おろす景勝の地でした。弥次さん・喜多さんが活躍する『東海道中膝栗毛』にも、「爰は片側に茶店軒をならべ、いずれも座敷二階造、欄干つきの廊下・桟などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし」とあります。
➛料亭田中家


➛海の眺めを楽しむため、台町の坂道沿いにはたくさんの腰掛け茶屋が並んでいました。広重による「東海道五十三次」の神奈川・台之景に、坂の上から三軒目に「さくらや」という看板の文字が読めます。これが、現在の田中家の前身です。今でこそ埋め立てがすすみ、国道1号と横浜駅を越えて海に出るまで1キロほどありますが、昔は探訪絶景で欄干から釣り糸を垂らせたといい、伊藤博文ら明治の元勲や夏目漱石ら文豪も投宿しています。
➛台町の茶屋


➛田中家の前をさらに下ると、 大綱金刀比羅神社の前に出ます。江戸時代には、この神社のすぐ脇・街道を挟んだ両側に、一里塚が置かれていました。日本橋より七つ目の塚でした。
➛大網金刀比羅神社


➛一里塚のその先が三宝寺です。住職・弁玉は、歌人としても知られ、文明開化の新事物を詠いました。
➛三宝寺


➛右手に海を眺めながら坂道を下ると本覚寺の山門前に出ます。開港当時、 アメリカ領事館にあてられたのが、 この本覚寺。 神奈川領事であったドーアは、庭の松の枝を払い落とし、この木の上に星条旗を掲げたといいます。安政五年 (一八五八) 日米修好通商条約締結に際し、アメリカ公使ハリスとの交渉にあた った全権委員・岩瀬忠震を記念する石碑が境内に立てられています。
➛本覚寺


➛青木橋を渡り、 旧東海道の道筋にある宮前商店街にはいると、 街道山側に甚行寺と普門寺があります。開港当時、 甚行寺はフランス公使館に、普門寺はイギリス士官の宿舎にあてられたといいます。
➛宮前商店街


➛甚行寺


➛普門寺


➛神奈川宿を描く絵図には、街道北側にひときわ高い山が描かれていることが多く、その山を権現山といいます。現在、幸ヶ谷公園や小学校のある丘は、権現山の跡であり、本覚寺のある丘ともひと続きでした。この権現山は、古戦場として知られています。戦国時代、関東管領上杉一門の家臣でありながら、北条早雲に内通して主君に反旗を翻した上田蔵人の砦がこの山の上にありました。
➛権現山城跡「神奈川権現山外国人遊覧」


➛宮前商店街をさらに進むと、洲崎大神に出ます。源頼朝が、安房国の安房神社の神をこの地に招いたのが、洲崎大神の始まりといいます。神社前の道を海側へ、第一京浜に出るあたりが舟着き場でした。
➛洲崎大神


➛幸ヶ谷公園から小学校脇の坂道を下ると、宗興寺に出ます。開港当時、アメリカ人宣教師で医者であったヘボン博士が、ここに施療所を開いていました。これを記念する石碑が境内に立てられています。このヘボン博士は、「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行いました。後に、明治学院を創設するなど、わが国の教育にも尽くした人でした。
➛宗興寺


➛宗興寺から東へ進むと滝の川に出ます。宿場町時代には、滝の川を挟んで江戸側に神奈川(石井)本陣、その反対側に青木(鈴木)本陣が置かれていました。本陣というのは、大名や公家などが宿泊や休息をする幕府公認の宿です。現在、高速道路が走っています。
➛滝の橋 本陣跡


➛『神奈川駅中図会』には、右に神奈川本陣、左端には滝ノ橋が描かれています。その橋のたもとに、高札場が見えています。高札場は、幕府の法度や掟などを庶民に徹底させるために設けられた施設
です。宿場の施設としては重要なものでしたが、明治に入り情報伝達の手段が整うにつれて、やがて姿を消してしまいました。写真は、資料をもとに神奈川地区センターの前に復原したものです。
➛高札場(神奈川地区センターの前に復原)


➛写真は、滝の川のほとりにある浄瀧寺です。この寺は、開港時には、イギリス領事館にあてられました。また、滝の川は、権現山から流れ出る水が、滝となって落ちていたので、滝の川といわれるようになったとの説もあります。
➛浄瀧寺


➛慶運寺のすぐ近くに成仏寺があります。開港当時、成仏寺はアメリカ人宣教師の宿舎にあてられました。ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裏に住んだといわれています。
➛成佛寺


➛成仏寺から東へ向かうと、ほど近い場所に神奈川地区センターがあります。歴史の道のルートは、この建物の前を通り、さらに東の金藏院へと続いています。地区センター前の広場には、かつて滝
ノ橋のたもとにあった「高札場」が、往時をしのんで復原されています。
➛神奈川地区センター


➛慶運寺


➛地区センターを過ぎると、道の右手に東神奈川公園があります。この公園のすぐ向こうに、熊野神社が見えてきます。この神社は、もと権現山にありました。平安時代に、紀伊の熊野権現を招いた
ことによる、といわれています。
➛熊野神社


➛金藏院は熊野神社の北側にあります。金藏院の境内は今より広く、門の位置も熊野神社と並んでいました。そしてこの門まで、街道から参道が延びていました。
➛金蔵院


➛金藏院から小田原北条氏の家臣平尾内膳の創立と伝えられる東光寺の前を通り、さらに東へ進むと、能満寺と神明宮が並んでいます。能満寺は、鎌倉時代の創立とされています。
➛東光寺


➛神明宮


➛能満寺


➛能満寺を後に東へ向かうと、良泉寺の塀に突きあたります。この寺には、次のような話が伝わっています。開港当時、幕府から外国人宿舎にするように命ぜられた住職は、屋根をはがし、修理中との口実でこれを断ったといわれています。この良泉寺を左に折れ曲り、京浜急行のガード下をくぐり抜けると、笠のぎ稲荷神社です。
➛良泉寺


➛笠のぎ稲荷神社


➛京浜急行・神奈川新町駅の近くに、神奈川通東公園があります。ここが「歴史の道」の終点です。昭和四十年(一九六五)に移転するまで、ここに長延寺が建っていました。この寺は、開港当時、オランダ領事館にあてられました。また、このあたりは、神奈川宿への江戸からの入口にあたります。
➛長延寺跡・土居跡

2013年2月17日日曜日

山口 萩往還(萩~防府)53kmの道のり


Google MapTravel
➛萩往還(はぎおうかん)は、江戸時代に整備された街道の一つで、長門国の城下町である萩(山口県萩市)と周防国三田尻(山口県防府市)とをほぼ直線に結ぶ全長約53kmの街道でした。毛利氏(長州藩)が萩城に居を移した後の慶長9年(1604年)に、道幅二間(4m)の重要道路として整備したもので、日本海側の萩と瀬戸内海側の商港であった中関港とを結ぶ役割があり、幕末には志士たちが往来するなどしていましたが、明治時代以降は利用者が減って道も荒れ、険しい山道など一部はそのまま廃道となっっています。
公開されている資料「➛萩往還」「日本風景街道ちゅうごく」を基に、空撮ツアーを試みます。
➛復元された唐樋札場跡


萩往還(萩~防府)53kmの道のり
joy555 trails
Wikiloc ツアー一覧(後順)
空から街並み拝見(Google Earth)


涙松跡(吉田松陰歌碑)


➛松陰記念館には松下村塾が再現され、記念館の前には高杉晋作・伊藤博文などの塾生の銅像が並んでいます。また道の駅「萩往還」では休憩所やレストラン・売店・トイレなどウォーキングの疲れを癒せます。
➛松陰記念館


➛明木市は、赤色の石州瓦の屋根が軒を連ねる町並みがとても印象的で、城下の萩から数えて最初、 そして江戸からは最後の宿駅です。幕末期、吉田松陰や高杉晋作、坂本龍馬など多くの志士が往来しました。
明木市


明木市


落合の石橋


➛佐々並市は、宿場町、市の町として栄えた集落です。集落の真ん中を通るメインストリートは昔と同じく 鍵型に曲がっており、その街道沿いには、虫小窓や土蔵などのある伝統的建造物が並び趣のある街並みで、地域をあげてその風情と景観を守る取り組みを進めています。また、国道沿いには、道の駅もあり、多くのドライバーの心を和ませてくれます。
佐々並市


佐々並市


六軒茶屋付近の石畳


➛六軒茶屋跡・ 一の坂駕籠建場跡は、萩往還最大の難所とされる一の坂に設けられた休息所です。名前の由来となった6軒の茶屋(元は民家だが旅人のために軒先で茶を出し始めた)の他、藩主の休憩所である駕籠建場(藩主の駕籠を降ろして休憩する場所)がありました。
六軒茶屋跡・一の坂駕籠建場跡


➛錦鶏の滝


➛以前、広島の厳島神社を初めとし、錦帯橋、秋吉台・秋芳洞・瑠璃光寺を経由して日本海へ、長門市や萩市を訪ねたことがあります。萩往還の道のりなど念頭になく、瑠璃光寺が、その行程にあることなど知る由もなく、日本三名塔(京都の醍醐寺・奈良の法隆寺)の一つに数えられる五重塔に見入ったことが思い出されます。
➛瑠璃光寺五重塔

➛八坂神社

➛龍福寺


➛宮市本陣兄部家


➛防府天満宮


➛英雲荘(三田尻御茶屋)は、萩往還の終点で、萩藩2代藩主毛利綱広により承応3年(1654)、参勤交代の宿泊用に建設された三田尻御茶屋です。7代藩主毛利重就が隠居後に移り住んだことから、重就の法名にちなみ「英雲荘」と命名されました。
➛英雲荘


➛三田尻御舟倉跡は、戦国時代に活躍した毛利水軍が、慶長16年(1611年)に御船手組として新たに本拠地とした場所です。御座船を始めとする軍船などの停泊・修理・建造ができる設備が備えられていましたが、明治時代に御舟倉が廃止されたため、通堀とその水路の一部のみが現存しています。
三田尻御舟倉跡

2013年2月14日木曜日

中山道六十九次(日本橋~深谷宿)

Google Map
➛中山道(なかせんどう)は、江戸時代の五街道の一つで、本州中部の内陸側を経由する路線です。「中仙道」とも表記するほか、「木曾街道」や「木曽路」の異称も有しました。
江戸の日本橋から草津宿まで、 草津宿で東海道に合流します。江戸から草津までは129里あり、67箇所の宿場が置かれました。現在の都府県では、東京都・埼玉県・群馬県・長野県・岐阜県・滋賀県にあたります。
中山道六十九次
➛歌川広重筆。
明六ツ(夜明け頃)に日本橋を渡る大名行列と、その手前には魚河岸で仕入れた魚を売りに行く行商の魚屋の姿などが描かれています。現在の築地市場の前身である魚河岸は、かつて日本橋のたもとにありました。
中山道 日本橋

現在の日本橋

中山道六十九次の内(日本橋~深谷宿)間
joy555 trails
Wikiloc ツアー一覧(後順)
空から街並み拝見(Google Earth)

➛渓斎英泉筆。
画面の左端、道の中央に「是從板橋(これより いたばし)」と記されているであろう傍示杭が建っています。中央より若干左手に見える姿のよい旅人は武家の夫婦で、1人の使用人が後に続きます。
中山道 板橋宿

板橋宿本陣跡
➛今は、スーパーマーケットライフですが、その向いにある石神医院、ここはかって、江戸時代の蘭学者高野長英をかくまった医師、水村玄洞の旧宅だそうです。

➛渓斎英泉 画。
蕨宿の近隣にあって一帯の水運を担う戸田の渡しが描かれている。人馬の別無く舟に乗り合い、白鷺が舞う戸田川を往く、天保の頃の人々ののどかな様子です。
中山道 蕨宿

蕨本陣跡
蕨本陣跡に位置する歴史民俗資料館は江戸から昭和にかけての昔の暮らしが展示されています。

➛渓斎英泉 画。
絵師が選んだのは蕨宿から浦和宿へ向かう途中にあって名物の焼き米を食べさせる立場茶屋です。右手の丘陵で鳥が一啼きでもしたか、歩きながら揃って視線をやる2人の旅人(武士とその使用人)がいて、進む先には焼き米売りの茶屋が待っています。
中山道 浦和宿

浦和宿碑
浦和宿は上・中・下の三町で成り立っており、旅籠15軒とあまり大きな宿場ではなく、上町の二日・十七日、 仲町の七日・二十二日、下町の十二日・二十七日に行われる二・七市場で賑わった宿場でした。

➛渓斎英泉 画。
水ぬるみ、田畑は地色を覗かせ、桜が花をつける早春の郷。左手には、青面金剛像の彫られた庚申塔と近在の農民の暮らしが描かれています。
中山道 大宮宿

➛渓斎英泉 画。
描かれたのは、実りの季節を迎えた神域と農民の働きぶり、そして旅路です。上尾宿と江戸方に一つ手前の宿場である大宮宿との間に位置する加茂神社と加茂宮村が舞台に選ばれ、秋祭りが近いであろう社には何本もの加茂大明神の奉納幟がはためいています。
中山道 上尾宿

➛渓斎英泉 画。
簡素な家の庭先で麦の穂をこぐ農婦に、旅人が氷川天満神社(加納天神)への道を尋ねています。
中山道 桶川宿

➛渓斎英泉 画。
人家が途絶えた寂しい道は鴻巣宿近辺ではなく、さらに先、間の宿がある吹上辺りの風景です。旅路の目印となる榎が疎らに植えられた昿原(こうげん)の縄手を旅の商人や虚無僧が往き交い、背景では雪を頂く富士の山が雄大な姿を現しています。
中山道 鴻巣宿

➛天保14年(1843年)の中山道宿村大概帳によれば、熊谷宿の宿内家数は1,715軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒で宿内人口は3,263人でした。
中山道 熊谷宿

➛渓斎英泉 画。
深谷宿は中山道で最大規模の宿場で、本陣1(飯島家)、脇本陣4、旅籠80余。商人が多く、また飯盛女も多く、遊郭もあり、江戸を出立して2晩目の宿を求める人で大いに栄えました。
中山道 深谷宿