➛Google Map
➛名所・史跡を投稿画像で紹介。
➛ブダペストは「ドナウ河岸、ブダ城地区、アンドラーシ通りを含むブダペスト」との名称で世界遺産に登録され、その美しい町は、ドナウによって平地のペスト地区と丘や谷のあるブダ地区に分けられています。
➛ペスト地区からドナウ川と議会を望む
➛オススメ動画 「Budapest Yours to Discover」
ブダペスト(ブダ城 聖イシュトバーン大聖堂)
➛Wikiloc ツアー一覧(後順)
➛空から街並み拝見(Google Earth)
➛2002年にはエリジェベート広場と市民公園をむすぶ2.5kmのアンドラーシ通りが世界遺産に追加登録されました。この通りは、建国一千年を記念し市民公園と共に整備されました。
➛アンドラーシ通り
➛英雄広場
➛アートギャラリー
➛美術館
➛フネドアラ城
➛セーチェニ温泉
➛遊園地
➛国鉄西駅
➛国会議事堂
➛オペラ座
➛通りの下には、欧州大陸最初の地下鉄が走り、地上にはオペラ座、リスト音楽院、聖イシュトバーン大聖堂、英雄広場、セーチェニ温泉、西洋美術館、現代美術館、ブダペスト動植物園、サーカス、遊園地などの様々なアトラクションが用意されています。
➛聖イシュトバーン大聖堂
➛➛科学アカデミー
➛中央市場
➛国立博物館
➛ドナウによって形成された独特の地形、川に架かる多くの橋や川岸に林立する建物が景観を醸し出しており、文化的な価値が評価されました。
➛セーチェーニ鎖橋を望む夕景
➛ブダの王宮の丘にある漁夫の砦は、円錐形のトンガリ屋根が印象的な展望台で、命名の由来はかつて漁師組合がこの王宮の丘の上を守っていたことによるとされ、砦の前には聖イシュトバーンの騎馬像が立っています。
➛漁夫の砦
➛ブダの王宮の丘には中央にドームを持つ王宮(現国立美術館)、マーチャーシュ教会、漁夫の砦が、一方、ペスト側にはドナウ川のさざ波を前に国会議事堂、ヴィガドー劇場、科学アカデミーなどが建っており、美しさを際立たせています。
➛ブダ城
➛マーチャシュ教会は、13世紀に建設し、トルコ軍占領時代に一時モスクに改築されましたが、撤退後カソリック・ゴジック様式に戻されました。白い外壁と内部に描かれているフレスコ画が美しい教会です。
➛マーチャシュ教会
➛軍事史博物館
➛ギュル・ババの霊廟は、オスマン・トルコ軍がブダペスト襲来の際に従軍してきた修道僧ギュル・ババの霊廟で、当地で急死したことによりトルコ軍司令官がこの地に霊廟を建設しました。
➛ギュル・ババの霊廟
➛ゲッレールトの丘の頂上にそびえているのは、第二次大戦後のソ連兵の慰霊碑で、名前の由来となっている聖ゲッレールトの像は丘の中腹にあります。王宮の漁夫の砦と並んで市内を眺めることができる展望所の一つです。
➛ゲッレールトの丘
➛ゲッレールト温泉
➛くさり橋は、ドナウ河に架けられた最初の堅牢な橋で、石と鉄とで支えられ、第二次大戦時に爆破されましたが、戦後再建されました。夜間ライトアップされる形からくさり橋と呼ばれています。ドナウ河に架かる最も雄大な橋でありブダペストの夜景には欠かせません。
➛くさり橋
➛鉄道駅にて
➛路面電車
2013年4月30日火曜日
2013年4月28日日曜日
ウズベキスタン 歴史的なオアシス都市、タシケントの景観
➛Google Map
➛タシケントは、ウズベキスタンの首都で旧名はシャシュと言いました。「石の街」を意味するこの街は中国の文献で「石国」という名でも記録されています。1966年の大地震によって、街の大部分は破壊され、ソビエト時代に新しい街が形成されましたが、旧市街には古きシルクロードの面影を残す建物が残っています。
➛議会センター
➛オススメ動画 Tashkent, Uzbekistan
➛ウズベキスタン タシケント(チムール広場 モスク 独立広場)
➛Wikiloc ツアー一覧(後順)
➛空から街並み拝見(Google Earth)
➛現在のタシケントは、広場、歴史的建造物、博物館や旧市街の土塀の迷路、ポプラの並木路、暑い夏の日の噴水のしぶきなど、初めて訪れた人を驚かす大都市です。
チムール広場にある馬上の像は、ウズベクが生んだ英雄チムールです。
➛チムール広場のチムール像
➛ティムール王朝歴史博物館は、ティムールの統治時代とその子孫について様々な知識を得ることができ、シルクロードを通じてティムールの国家へ伝えられた様々な学問的資料や装飾品などが展示されています。
➛ティムール王朝歴史博物館
➛ブロードウェイは、タシケントきっての繁華街で若者が集まり歩行者天国になっています。
➛ブロードウェイ
➛アートギャラリー
➛皇帝ニコライ2世の親戚であったニコライ・コンスタンティノビチ・ロマノフ大公の旧公邸です。大公の趣味は芸術作品収集で、その作品のためにタシケントの中心に美しい公邸が建てられました。革命と大公の死後、その公邸は美術館になりましたが、現在はウズベキスタン共和国外務省の歓迎レセプション館になっています。
➛迎賓館
➛ウズベキスタン歴史博物館は、テルメズのファヤズ・テペから出土した仏陀像など仏教遺跡からの出土品が数多く展示されています。
➛歴史博物館
➛ナボイ・オペラ・バレエ劇場の建設には、日本人も携わった事は有名です。第二次世界大戦後、1945~1946年にかけてタシケントに抑留された数百名の旧日本兵が参加しました。強制労働にも関わらず、こうした見事な建物を造り上げたことは伝説になっています。前庭には大きな噴水があり、夏は市民の憩いの場である。
➛ナボイ・オペラ・バレエ劇場
➛ブハラストリート
➛ティムール広場から西へ進むと、コウノトリを配した大きなゲートと子供を抱いた母の像が見える独立広場に出ます。左には国会議事堂や政府の建物が並び、右へ行くと第二次世界大戦の戦没者記念碑へ行けます。
➛独立広場
➛行政ビル
➛上院ビル
➛独立広場の噴水
➛チョルスー・バザールの、シンボルの青いドームの中は、乳製品やドライフルーツ、ナッツ類、蜂蜜などが売られ、外では季節の果物、野菜が売られている。地下鉄チョルスー駅の階段を上がると、バザールという便利さもあり、タシケント観光にはお勧めの場所です。
➛チョルスー・バザール
➛チョルスー・バザール
➛チョルスー・バザールの傍に16世紀に建てられた歴史的建造物であるクカルダシュ・マドラサが位置し、独立後に修復され、再び神学校として活動しています。
➛クカルダシュ・マドラサとジュマ・モスク
➛青年の家
➛博物館
➛博物館
ハズラティ・イマム広場には、16世紀に建設されたバラクハン・マドラサと、ティラ・シェイフモスク、聖人アブ・バクル・カファリ・シャーシ廟、イマーム・アリ・ブホリ・イスラーム大学があります。
➛モスク
➛ハズラティ・イマム広場にて
➛カトリック教会
➛北駅
➛Tags=Tashkent, Uzbekistan
➛タシケントは、ウズベキスタンの首都で旧名はシャシュと言いました。「石の街」を意味するこの街は中国の文献で「石国」という名でも記録されています。1966年の大地震によって、街の大部分は破壊され、ソビエト時代に新しい街が形成されましたが、旧市街には古きシルクロードの面影を残す建物が残っています。
➛議会センター
➛オススメ動画 Tashkent, Uzbekistan
➛ウズベキスタン タシケント(チムール広場 モスク 独立広場)
➛Wikiloc ツアー一覧(後順)
➛空から街並み拝見(Google Earth)
➛現在のタシケントは、広場、歴史的建造物、博物館や旧市街の土塀の迷路、ポプラの並木路、暑い夏の日の噴水のしぶきなど、初めて訪れた人を驚かす大都市です。
チムール広場にある馬上の像は、ウズベクが生んだ英雄チムールです。
➛チムール広場のチムール像
➛ティムール王朝歴史博物館は、ティムールの統治時代とその子孫について様々な知識を得ることができ、シルクロードを通じてティムールの国家へ伝えられた様々な学問的資料や装飾品などが展示されています。
➛ティムール王朝歴史博物館
➛ブロードウェイは、タシケントきっての繁華街で若者が集まり歩行者天国になっています。
➛ブロードウェイ
➛アートギャラリー
➛皇帝ニコライ2世の親戚であったニコライ・コンスタンティノビチ・ロマノフ大公の旧公邸です。大公の趣味は芸術作品収集で、その作品のためにタシケントの中心に美しい公邸が建てられました。革命と大公の死後、その公邸は美術館になりましたが、現在はウズベキスタン共和国外務省の歓迎レセプション館になっています。
➛迎賓館
➛ウズベキスタン歴史博物館は、テルメズのファヤズ・テペから出土した仏陀像など仏教遺跡からの出土品が数多く展示されています。
➛歴史博物館
➛ナボイ・オペラ・バレエ劇場の建設には、日本人も携わった事は有名です。第二次世界大戦後、1945~1946年にかけてタシケントに抑留された数百名の旧日本兵が参加しました。強制労働にも関わらず、こうした見事な建物を造り上げたことは伝説になっています。前庭には大きな噴水があり、夏は市民の憩いの場である。
➛ナボイ・オペラ・バレエ劇場
➛ブハラストリート
➛ティムール広場から西へ進むと、コウノトリを配した大きなゲートと子供を抱いた母の像が見える独立広場に出ます。左には国会議事堂や政府の建物が並び、右へ行くと第二次世界大戦の戦没者記念碑へ行けます。
➛独立広場
➛行政ビル
➛上院ビル
➛独立広場の噴水
➛チョルスー・バザールの、シンボルの青いドームの中は、乳製品やドライフルーツ、ナッツ類、蜂蜜などが売られ、外では季節の果物、野菜が売られている。地下鉄チョルスー駅の階段を上がると、バザールという便利さもあり、タシケント観光にはお勧めの場所です。
➛チョルスー・バザール
➛チョルスー・バザール
➛チョルスー・バザールの傍に16世紀に建てられた歴史的建造物であるクカルダシュ・マドラサが位置し、独立後に修復され、再び神学校として活動しています。
➛クカルダシュ・マドラサとジュマ・モスク
➛青年の家
➛博物館
➛博物館
ハズラティ・イマム広場には、16世紀に建設されたバラクハン・マドラサと、ティラ・シェイフモスク、聖人アブ・バクル・カファリ・シャーシ廟、イマーム・アリ・ブホリ・イスラーム大学があります。
➛モスク
➛ハズラティ・イマム広場にて
➛カトリック教会
➛北駅
➛Tags=Tashkent, Uzbekistan
2013年4月22日月曜日
トルコ 「トロイの木馬」が建つ「トロイの考古遺跡」
➛Google Map
➛「トロイの木馬」は、ギリシア神話に登場する装置で、トロイア戦争において、トロイア(イリオス)を陥落させる決め手となりました。トロイア戦争でギリシア勢の攻撃が手詰まりになってきたとき、オデュッセウスが木馬を作って人を潜ませ、それをイーリオス市内に運び込ませる作戦でトロイアを滅亡に至らしめたとする神話です。
➛トロイの木馬
➛トルコ トロイの遺跡(古代ギリシャの劇場 トロイの木馬)
➛Wikiloc ツアー一覧(後順)
➛空から街並み拝見(Google Earth)
➛トロイア戦争それ自体は、確固たる歴史に編纂されるものではなく、紀元前1700年から紀元前1200年頃にかけて、小アジア一帯が繰り返し侵略をうけた出来事を核として形成されたであろう神話です。しかし、これについては、紀元前1250年頃にトロイアで大規模な戦争があったとする説もあれば、そもそもトロイア戦争自体が全くの絵空事であるという説もないわけではないとされています。
➛トロイア戦争の起因「パリスの審判(ルーベンス画)」
➛「トロイの木馬」が建つイリオスは、ギリシア神話に登場する都市です。シュリーマンによる発掘が行われるまで、イリアスは神話上の架空都市にすぎないというのが一般的な概念でしたが、1870年、シュリーマンによるトロイアの発掘を開始して以来、多くの遺跡の発掘がなされ、1998年、「トロイの考古遺跡」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
➛トロイ遺跡の空撮
➛古代ギリシャの劇場
➛イリオスの遺跡
2013年4月14日日曜日
福島 会津 大河ドラマ「八重の桜」の史跡を追う
➛Google Map
➛先日(2013/04/14)、NHK大河ドラマ「八重の桜」の地元、会津のホームページ「八重と会津博」に魅せられ、その足跡を追おうとしてます。丁度、日本の五街道などに興味を抱き、江戸時代の旅の行程を調べている最中であり、又、以前に旅行で歩いた会津の道のりとは角度を変えての中味に惹かれました。
➛新島 八重
➛福島 会津市(大河ドラマ、八重の桜)
joy555 trails
➛Wikiloc ツアー一覧(後順)
➛空から街並み拝見(Google Earth)
➛新 Google Map 福島 会津若松市 若松城(鶴ヶ城)
➛鶴ヶ城(会津若松城)の南西に位置する新島八重生誕地の碑です。
➛新島八重生誕地の碑
➛かつてこの場所にあった藩校・日新館の天文台の跡です。
➛日新館天文台跡
➛茶室麟閣は、千利休の子少庵ゆかりの茶室で、庭園の四季を眺めながらお茶が楽しめます。
➛茶室麟閣
➛鶴ヶ城(会津若松城)は、至徳元(1384)年、葦名直盛が、現在の場所に東黒川館を建てたのが始まりといわれています。文禄2(1593)年、蒲生氏郷が7層黒塗りと想像される天守を建て、鶴ヶ城と名付けました。
➛鶴ヶ城(会津若松城)
➛以前(2002/10/27)、鶴ヶ城を訪ねた際、目にした風景です。周囲の景観とマッチしたスナップで大切に保存しています。
➛鶴ヶ城にて
➛1868年9月22日、ついに会津藩は降伏、開城となり、午後には、本丸に篭城者が全員集められ一夜を過ごします。その夜、真夜中12時頃、月が煌々と輝く中、八重は三之丸雑物蔵の白壁に「明日の夜は いずこの誰か 眺むらん なれしお城に 残す月影」と刻んだと言われています。
➛八重が落城の際に詠んだ雑物蔵
➛会津藩には「鬼」と呼ばれる戦いぶりを見せた藩士がいました。それが、別選組の隊長であった佐川官兵衛です。
➛佐川官兵衛顕彰碑
➛鶴ヶ城三の丸の入口には、会津藩公用方・秋月悌次郎の詩碑が建っています。悌次郎は日新館の頃から非凡の才を見せており、江戸の昌平黌で書生寮の舎長を務めたこともあるほどの秀才でした。
➛秋月悌次郎詩碑
➛大河ドラマ館では、「傷ついても、前を向く強い志」を、八重のふるさと会津で感じていただくため、八重の不屈の精神が育まれた背景や体験型ゾーンの充実によりドラマの世界観をよりリアルに感じていただける仕掛けをしています。
➛大河ドラマ館
➛会津葵本店は、会津藩御用の茶問屋の流れをくむ老舗の和菓子屋で、白い大きな暖簾が目立つ蔵造りの店です。
➛会津葵本店
➛会津藩の筆頭家老であった西郷頼母の屋敷は、鶴ヶ城北出丸入口のすぐ傍にありました。西郷家は保科家から分家した一族で、会津藩で代々家老を務める家柄です。
➛西郷頼母邸跡
➛戊辰戦争後、会津藩は賊軍として長い間憂き目を見ることになります。そんな身分でありながら、明治という世の中に名を遺した一族がいます。それが、会津藩家老を務めた山川家で、中でも長男の山川大蔵、その弟・健次郎、妹の捨松は、非常に優秀な人物として時代に名を刻んでいます。
➛山川兄妹生誕の地
➛酒造歴史館では、現在も実際に酒造りの行われている宮泉銘醸一番蔵を一般公開しています。
➛酒造歴史館
➛福島 会津若松 鶴ヶ城(若松城)と野口英世青春通りなど周辺
野口英世青春通り・レオ氏郷南蛮館・渋川問屋・七日町駅・SL会津磐梯号
➛会津若松駅 白虎隊士の像
➛妙国寺は、白虎隊士最初の埋葬の地です。会津藩の降伏後、会津藩士の遺体は占領軍が埋葬を禁じたため、自刃した白虎隊士の屍も放置されたが村の肝煎りが密かに妙国寺に運んだといわれます。
➛妙国寺
➛旧滝沢本陣は、参勤交代や領内巡視などの際の殿様の休息所です。戊辰戦争の際に本営となり、白虎隊もここで命をうけて戸ノ口原戦場へと出陣していきました。
➛旧滝沢本陣
➛白虎隊記念館には、会津藩主松平容保公、萱野権兵衛、西郷頼母、秋月悌次郎、中野竹子ら娘子軍、新島(山本)八重子らの会津藩関係の史料や、新撰組の近藤勇、島田魁、西軍総督岩倉具定、板垣退助らの有名諸将などの史料がありあす。
➛白虎隊記念館
➛飯盛山は、白虎隊自刃の地としても知られています。
➛飯盛山
➛大龍寺は、八重の先祖が眠る山本家の菩提寺で、戊辰戦争殉難殉節供養の碑もあります。
➛大龍寺
➛天寧寺本堂の裏手にある参道を登っていくと、新選組局長である近藤勇の墓があります。この墓は新選組副長であった土方歳三が会津戦争の際に、ここに埋葬していったと言われています。
➛天寧寺
➛近藤勇の墓
➛会津武家屋敷は、会津藩家老であった西郷頼母邸を中心に、武家の暮らしを感じ取れる屋敷を復元したミュージアムパークです。復元した屋敷のほかに、重要文化財の旧中畑陣屋や藩米精米所などを備え、当時の会津武士たちの生活ぶりを知ることができます。
➛会津武家屋敷
➛松平家墓地は、会津藩二代藩主・保科正経から、代々の会津藩主とその妻子を葬った墓所です。明暦3(1657)年、初代藩主・保科正之の次男・正頼が死去したときに、院内山と呼ばれるこの山を墓所に指定しました。そのため「院内御廟」とも呼ばれています。八重の父や兄が仕えていた会津藩九代藩主・松平容保もここに眠っています。
➛松平家墓地
➛宝積寺の裏手には、八重や白虎隊が実弾の訓練をしたと言われている的跡があります。的は鶴ヶ城のもととなった東黒川館を建てた葦名直盛の母・金峯尊公大禅定尼の墓を改修した土壇で、高さが1.5メートル、幅が3メートルあります。未だに訓練時に使用したとみられる弾が見つかることもあるそうです。
➛宝積寺
➛河井継之助埋骨地は、長岡藩家老・河井継之助の遺骨を仮埋葬したと言われている場所です。河井継之助は長岡藩の軍制や財政の改革に取り組んだ家老でしたが、戊辰戦争の際、激戦の末に只見の塩沢村で亡くなりました。
➛河井継之助埋骨地
➛善龍寺は、会津の藩祖である保科家の菩提寺で、。「竜宮門」と呼ばれる山門は、会津では珍しいものです。多くの会津藩士が眠るところでもあり、戊辰戦争の際、最後まで容保に諫言し続けた国家老・西郷頼母の墓や、一斉自刃した頼母の家族親戚21人が眠る墓もあります。
➛善龍寺
登録:
投稿 (Atom)